地域の3年生以下のチビッ子たちに野球を教え、やがては本人の行きたいチームへと送り出す活動を続けて10年。野球を通じて、無限の郷土愛を無償で捧げてきた“無名なる偉人”が新潟にいました。次にバトンを托したのは、過去に父親監督で全国出場し、今ではすっかり選手主動に転換している賢者でした。自ずと笑顔と活気にあふれる、ひとつの理想郷。それぞれに具現する者として、相互の理解とリスペクトがあるようです。
(取材・構成=大久保克哉)
てらお・たかし●1965年、新潟県生まれ。豊栄市(現・新潟市)立木崎中の軟式野球部で外野手、豊栄高では一番・遊撃手としてプレー。結婚後に建築士に。近所の妻の母校・笹山小にあった野球部復活の待望論から、2003年に笹山ライオンズを立ち上げて2013年まで監督。野球人口の減少を憂いて2014年4月には、新潟市北区で所属やチームを問わない3年生以下の野球教室「北学キッズ」を開校。この2024年4月に、同教室を母体としたクラブチーム「北学ジュニア」を創設して監督も務める。2011年から23年までは北区の6年生選抜チームの監督も務めたほか、県下の女子学童のBBガールズ普及員会や同選抜・新潟BBガールズの立ち上げや運営にも尽力している
[新潟・北学ジュニア]寺尾 孝
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米山慎一
[新潟・新坂スピリッツ]
よねやま・しんいち●1978年、埼玉県生まれ。就学前に新潟県柏崎市へ転居、小3からリトルリュウ高柳で野球を始める。高柳中の軟式野球部で遊撃手、柏崎常盤高では投手も兼務で2年秋に県8強入り。3年夏の県3回戦敗退で現役を終える。新潟工業短大への進学から新潟市に在住。2008年、長男が新通・坂井東野球団に入部、次男も入部した2010年からコーチに。翌2011年に5年生以下の監督となって選手と繰り上がり、13年に全日本学童大会初出場。次男が6年生の2015年限りで父子で卒団し、日本文理高で甲子園に出場した次男を見届ける。地域3校目の小学校開校を機に、2020年に「新坂スピリッツ」となった古巣へ、翌21年に指導者で復帰。翌2022年から監督を務めている
朝ドラのヒロイン!?
NHKの朝の連続テレビ小説のヒロイン。若い日の不遇に始まり、苦労や葛藤を乗り越えながらやがて大成していく。
私をこのコーナーに紹介してくれた一人、頓所(理加)さんの道程を思い返していて、浮かんできたのがそれでした。付き合いは20年になりますが、激動でしたね。彼女は徐々に活動の場を広げて、今では新潟の野球界にも女子野球界にもなくてはならない存在。またその功績から、全日本軟式野球連盟で女性初の理事となられてからも、情熱と人柄が変わらない。そういう野球人だから、多くの理解や支持が集まるのだと思います。
2024年4月に活動を始めた北学ジュニア。これで新潟市北区の学童チームが5チームに
「私は高校までソフトボールをやってきましたけど、本当は野球をやりたいんです!」
頓所さんからそういう話を聞いたのは、地元(新潟市北区)の笹山小学校に『野球部を復活させよう!』という動きが活発化した、2002年あたり。私は高校野球経験者ということで監督を依頼されて、ある日に関係者や近所の子どもらとバーベキューをしていました。
その中に、就学前の頓所さんの娘と息子も遊びに来ていて、後から迎えに来たお母さん(頓所さん)に初めて会って聞いたのが、さっきの野球への強い思い。私はすぐに、こう切り出しました。
「笹山ライオンズという少年野球チームがもうすぐできるから、手伝ってよ!」
高校まで野球をしてきたといっても、私は主力選手ではありませんでした。野球への情熱も実はそれほどでもなくて。私の娘と息子も結局、野球とはノータッチで大人になりました。
でも一方で、生まれ育った地域と子どもが大好きなんです。また元々、何かにつけて性別を気にするようなタイプでもなくて、野球の女性コーチに何の違和感もありませんでした。
北学ジュニアの活動は土日で半日ずつ。選手が名前を記入したボードでの点呼から始まる。「一人ひとりの表情や変化をまず確認します」(寺尾監督)
そして2003年から10年間、私と頓所さんは監督とコーチという役目と間柄に。チーム方針は、今のチーム(北学ジュニア)にも引き継がれていますが、『野球を楽しむ選手を増やす』というもの。そのためには、大人からの暴言や暴力、強制があってはならない。あくまでも、子どもたち自身の意欲や考えに根差した野球であることと、肝に銘じていました。
当初から賛同してくれた頓所コーチですが、1年目2年目は私の後ろにくっついていましたね。母親でありながら優しい娘さんのような感じで、遠慮も気遣いも過分にあったと思います。また当時の野球の現場には、女性蔑視が普通にあったと思います。あまりの風当たりの強さから、頓所コーチから辞意を伝えられたことも何度か。細かに覚えていませんが、私はこういう返事をしてきたと思います。
「このチームはあくまでもオレが監督で、頓所さんがコーチ。外から何を言われようが、オレが頓所さんを認めているので続けてくれないか!?」
そのうちに女子選手もチームに増えてきて、彼女も自身のことで悩んでいられないくらいに頼られ、忙しくなりました。指導育成では遠慮も消えて、私と一緒に試行錯誤もしながら、個々のメンタル的なサポートもしてくれるように。
基礎練習では指揮官は巡回しながら、選手と1対1でコミュニケーションを取り、時には手取り足取りの指導も。指導陣も選手も真剣だが、あちこちで笑顔も
チーム立ち上げから3年、4年したころでしょうか。いつの間にか、私にも頓所コーチにも欲が出ていました。勝ちたい、大会で優勝したい、と。低学年で始めた子たちが高学年になって、レベルが上がってきたのは事実でした。
ところが、ある日。久しぶりに試合を見に来た卒団生の親から、痛烈に言われてしまいました。
「面白くない! 子どもの笑顔が消えている!」
ショックでしたね。でも確かにそうでした。指導陣の欲が強過ぎて、子どもたちはプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのです。この一件で私たちは深く反省し、原点に立ち戻りました。
子どもの笑顔を絶対に絶やさないように! 子どもと同じ目線になって、選手が何を考えているかを理解する! その努力を続けていくことを誓いました。
畑は違えど同志のまま
頓所コーチが、県内の学童女子を集めてイベントを始めたのが2008年。これがきっかけで、彼女は新潟BBガールズという女子学童の選抜チームを立ち上げて代表に。二足の草鞋を履いた彼女を、私はできる限りサポートさせてもらいました。そして女子野球の普及に協力してもらえそうな一人として、お声掛けをしたのが、岩橋(誉)さんでした。
彼は小・中と私の1学年後輩。私と違って、競技レベルが高い選手で、高校も強い野球部で活躍していたのは知っていました。よく話をするようになったのは、お互いに学童チームの指導者になってから。彼は近隣の木崎イーグルスというチームで監督になっていました。
当時の彼の印象は厳しかった(笑)。野球をよく知っている人だし、ほとんどのチームがそういう時代でしたから、特別に目立っていたわけではありませんが。またBBガールズに一緒に携わるようになって、その印象も変わりました。
選手との対話は同じ目線で。一方的に言い聞かせるのではなく、質問や同調をしながら意志や意欲などを読み取っていく
岩橋さんは厳しい声掛けもある一方で、選手個々をよく考えている。バカを演じて場を盛り上げたかと思えば、集団が弛み過ぎるとビシッと締める。また保護者に対して、頭も気もつかえる。今のBBガールズの監督も適任だと思っています。
新潟市北区は少子化が深刻で、笹山ライオンズも2012年度限りで解散を余儀なくされました(笹山小は2019年度限りで閉校)。以降10年間は、すそ野を広げようと「野球教室」を開いてきたのですが、チームは減るばかり。昔は10チーム以上あったのが、今は4チームに。そこで今年度、北学ジュニアというチームを新たに立ち上げて活動を始めました。
女子野球にほぼ専念している頓所さんとは畑違いですが、地域や子どもを思う気持ちは変わらず共有しています。お互いに落ち着いたら、いつかまた一緒に指導者をやりたいなと思っています。
岩橋さんは絶対的な野球の知識と技術もあるので、私が困ったり壁に当たったときにはサポートしてもらえたら、と思っています。
現場復帰の名将に変化
さて、私から新たにご紹介するのは、新坂スピリッツの米山慎一監督です。出会ったのは15年くらい前でしょうか。私たちの新潟市北区が主催する「スーパージュニアカップ」という大会に出てきてくれたのが始まり。
彼らのチームは人口も子どもも多い新潟市西区にあって、当初の名前は「新通・坂井東野球団」。全国大会(2013年全日本学童)にもその名前で出ているので、ご存知の方も多いと思います。
米山さんが5年生たちの監督になってから(2011年~)、チームが明らかに強くなっていったのをよく覚えています。責任感が強いんでしょうね、県外の強豪チームなどとも積極的に交流されて、いろんな指導者に意見を求めたり、練習方法などを学んだり。怒るときも迫力はありましたが、目標をブラさずに選手を自由に導いているという印象でした。
その後、息子と一緒に卒団された米山さんが、また戻ってきたという情報をいただいたのが3年くらい前でしょうか。
「スーパージュニアカップ」で再会した米山さんは、見た目の印象はそれほど大きく変わりませんでした。
でも明らかに、以前の迫力はなくなっていました。絶対に勝つんだ!という監督自身の強い意思が、見事に消えている感じでした。それでいて、選手たちのレベルや質は落ちていない。
直接に話をしてみたところ、復帰してからの彼には、考え方で私と重なる部分がたくさんあることも分かりました。子どもたちに野球の楽しさや深さを教えることが第一で、その上で子どもたちと一緒に結果を求めていく。彼は今、そういう実践をしているそうです。
西区と北区は地理的にはそれほど近くありませんが、来年度以降はぜひ、私たちの北学ジュニアにも胸を貸してください! そしてこのリレートークのバトンを新潟県外へお願いします! それが私からのメッセージです。